東京大学駒場キャンパスでは9年前に大学院重点化と同時に生命認知科学科が創設された.既存の理系2学科(基礎科学科,広域システム科学科)とは異なり,分子(DNA)からヒトまでの生命科学を総合的に教育する独自の学際的教育組織として発足した.学科の内部は基礎生命分科と認知行動分科の2コースに分かれており,前者は生物学,生化学,物理有機化学(理T,理Uから進学),後者は認知心理学,脳科学(理T,理U,文Vから進学)などの横断分野を専門とする学生の教育を目標にしている.制限はあるが,学生はどちらのコースの講義も履修可能である.
学科の発足当時,生化学の基礎を学ぶための講義や実習種目の創設に関する生物教室からの要請を受け,講義では生体分子科学,実習では「生体分子の構造観察.コンピューターグラフィックスによる構造生物化学」と「NMR分光学」を化学の専門家として我々がそれぞれ1週ずつ担当している.今回はITを使った生命科学教育ということで,生体分子の構造観察実習を紹介する.
この実習では,核酸,タンパク質などの生体分子の構造を観察し,酵素反応機構や相互作用を考察する中で,生命科学研究の基礎となる分子論的視点を学ぶ.分子論的視点とは,生体分子の構造に書き込まれた情報や暗号を解読し,生命活動を生体分子の相互作用プロセスの集積として考える分子生物学の視点であり,Watson-Crickの核酸の二重らせん構造発見以来の現代生命科学における重要な物理・化学の視点である.
このような視点は,現代生物学の2つの流れの中で不可欠なアプローチとして注目されている.一つの流れは,生物を個々の遺伝子の働きからだけではなく,全遺伝子を視野に入れて理解しようとするゲノム生物学.もう一つは,たんぱく質を中心とする生体分子の立体構造から生命現象の本質を解き明かしていこうとする構造生物学の流れである.現代生物学の一つの方向として,ヒトゲノムプロジェクトを背景に,今後この2つの流れが合流し,構造ゲノム生命科学として急速な進歩を遂げていくものと考えられている.当面の目標は以下の5点である.
@ 生体分子の構造を実際に見ることにより生命現象への理解を深める.
A Protein Data Bankの生体分子のデータ検索の技法に習熟する.
B 生体分子モデルの表示編集ソフトRasTopおよびMolFeatの使用法を学ぶ.
C 代表的な生化学の教科書であるStryer and/or Voetを読みこなす.
D 実習の成果を研究発表や論文発表に利用する.
実習ではインターネット上で公開されているRasMolの進化版としてのRasTopを使う. RasTopは生化学を専攻するアメリカの大学院生によって現在開発途上にあるが,その操作性は無料で使用できるソフトとしては高く評価されている.しかし,将来的にRasTopのみに依存できない問題も想定されるのでMOLDAの利用を目指してその改良を行なっている.
学生による実習の評価はかなり良い.学習効果の点では,生物未習の学生のみならず,生物既習の学生にも大きな成果があったとの報告を受けている.
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